ジュエルレター 2011年5月
みなさん、こんにちは。
4月下旬、若い人たちに連れて行ってもらい、仙台空港近くの、山元町、岩沼町、そして翌日は石巻市に支援物資と炊き出しに行ってきました。30歳前後の若者たち30人の足手まといにならないよう気持ちを引き締め、炊き出しのお手伝いをしました。
初日は山元町の避難所と岩沼町の民家で炊き出し。満開の桜のそばにお墓があり、その隣に火葬に出来なかった約500体の土葬のお墓がありました。身元不明者も多くて、名前ではなく番号が示されてあり、更なる遺体収容用にいくつもの穴が掘られていて胸を締め付けられるような光景でした。

避難所ではなく損壊した自宅で過ごしている人たちも大勢いて、その方たちは避難所まで物資をとりに行く手段がなく、三浦の野菜や水など支援物資をすごく喜んでくださいました。近所の人たちに電話をしてもらい、夕方から炊き出しを始め、お鍋に家族の分のカレーを持ち帰る人もいました。

若い人たちがてきぱきと動くので、私の仕事はもっぱら現地の人とのおしゃべりです。ライフラインがやっと復旧しだしたこと、お店に商品が並びだしたことなど・・・・。でも商品を買うにはお金が必要で、これからのことを考えるとお金は使えないとも言ってました。家の周りの広大な畑は津波で海水をかぶり、塩害で何年も作物は出来ないだろうとため息をついていました。必死で片づけをすることで将来の不安を忘れていられるとも話してくださいました。気の毒で、ただ頷くことしか出来ません。
翌日は、多賀城市で別部隊と合流し、物資を補給し、石巻市に向かいました。海岸に近い小学校で炊き出しをしました。その小学校には500人が避難生活をしていらっしゃいました。

行くまでの道々、想像をはるかに超える津波の爪あと。海岸の方へ行くほどひどい状況です。映画のシーンをCGで撮っているような、車や船がとんでもない姿でとんでもないところにあるのです。
それでも2週間前に行った人たちから見るとずいぶん片付いたそうです。

2箇所の避難所を回って感じたのは、物資はたくさんあるということです。教室や廊下に様々なものが積み上げられています。しかし、被災者の方々には配られていないようで、マスクなども一教室を占領するほどあるのに、皆さんには一日1枚とかで、50枚入りのマスクの箱が大変喜ばれました。
ほかの地域でも水などすごく物資があるのに、配ってよいとの命令系統がはっきりせずに、もらいに行っても許可がないので渡せないと言われたという不満を聞きました。義援金などの分配もそうですが、行政などでは平等ということを考え、なかなかどのように分けたらよいのか、すんなり決まらないのではないかと思います。
しかし、被災者の方にとっては、一日でも早くお金や物資を分けてもらいたいのにという思いがあります。一瞬は不公平に見えても、みんなの気持ちを伝える想いがあれば、今ほしいものをすぐに届けてほしいものです。出せるお金は早く出して、新たな復興に向かってほしいと願うだけです。
地震と津波の被害も甚大ですが、原発事故によって避難させられている方たちは本当にお気の毒です。
福島県の飯館村は、平成の大合併のときにも他の市町村と合併せず、自給自治の道を選んだ村です。環境に配慮した農業・酪農を進め、ごみひとつまで自分たちの村でリサイクルする、そんな丁寧な村づくりをしていたそうです。世界中の環境ジャーナリストが見学に訪れていたといいます。そうした地道な努力を積み重ねてきた村づくりが原発事故で一瞬にして覆されてしまったのです。さらに、事故から1ヵ月半は、発電所から30キロ県外だったので避難勧告も出ていなかったのに、4月半ば、突然に危険区域に指定されてしまったのです。 災害や事故は仕方のない部分があるかもしれませんが、その対応は、国民を守るという気持ちがあまりにも欠けているように思います。東電の社長にしても、事故から1ヶ月以上たってから各地の避難所をお詫びしているそうですが、事故直後のお詫びならともかく、時間がたってからなら、政府とともに何らかの具体的救済、補償の提示や約束を示すべきで、それが出来ないお詫びなど意味ないのではないでしょうか。
どんな状況であれ、相手に心を沿わせることが出来ない人は、人の上に立つ資格がないと思います。